植物人間
第1話 感情




どこにでもあるような椅子に、どこにでもいるような少年が座っている。
少年の名は、影葉 蛍。 蛍は、ある事件のせいで、一切の感情を無くした、植物状態に陥ってしまった。
「お兄ちゃん、ただいま」
蛍の妹である可憐が、学校から帰ってきて、少年に声をかける。
だが、蛍は、魂が抜けているかのように、全く反応をしない。
「ただいま」
続いて、同じく蛍の妹の一人である咲耶が、学校から帰ってきた。
「おかえりなさい、咲耶ちゃん」
「お兄様は、まだあの状態?」
「……はい」
「……そう」
数秒の沈黙が訪れた後、2人は、特に会話もなく、それぞれの部屋に戻っていった。


事件は、ほんの数週間前にさかのぼる。



その日、蛍と可憐は、いつもどうり、近くの雑貨屋に日用品の買出しに来ていた。
「えっと、あとはこれだけかな? よし、じゃあ帰ろうか、可憐」
「はい、お兄ちゃん」
いつもと何ら変わらない、何気ない日常の会話。
この後に起こる出来事を、誰が予想などできたことだろう。
「付き合わせちゃってごめんね、可憐」
「可憐は、全然気にしてませんよ」
「ありがとう」
普通なら、気付くはずのことだった。
しかし、会話に夢中になっていた二人は、信号が赤になっていたことに気付いていなかった。
二人の目の前に、一台の車が突っ込んでくる。
しかし、会話に夢中になっている可憐は、今の危険な状況に気付いていない。
「危ない! 可憐!」
蛍が、可憐を思い切り突き飛ばす。
「キャッ!? お兄ちゃん、何を……」
驚く可憐が次の瞬間見た光景は、全身から血を流しながら倒れている蛍の姿だった。
しばらくすると、誰かが呼んだらしき救急車がやってきて、蛍を運んでいった。



蛍が運び込まれた病院の中で、蛍の無事を祈る妹達。
「うう、可憐……ひっく……ぐす……」
「泣かないで、可憐ちゃん。あなたが悪いわけじゃあないわ」
泣き止まない可憐を慰める咲耶の声には、力がない。
「そうデス。今は、兄チャマが助かることを考えましょう」
「うん……そうだね。可憐が泣いてる場合じゃないよね」
そうは言うものの、やはり、自然と流れてくる涙を止めることはできない。
刹那、手術室の灯が消え、中から、白衣を着た医師らしき人物が出てくる。
「お兄ちゃんは……お兄ちゃんはどうなったんですか!?」
「なんとか一命は取り留めました」
「……よかった」
心の底から安堵する可憐。
しかし、次の瞬間、わずかな希望は、絶望へと色を変えてしまう。
「しかし」
「……え?」
一転、深刻な表情になる医師らしき男。
安堵の表情を浮かべていた可憐にも、緊張が走る。
「確かに、命に別状はないのですが……事故のときの衝撃で、一切の感情を無くした、植物状態になってしまっているんです」
「そ、そんな……」
「……おそらく、もう回復することはないでしょう」
呆然と立ち尽くす可憐達を横切り、蛍は、病室へと運び込まれて行った。
妹達の希望で、蛍は、植物状態のまま、自宅に戻ることになった。



蛍が戻ってきてからは、毎日毎日、この繰り返しである。
いくら話し掛けても、返ってくる言葉はない。
「ただいま、お兄ちゃま」
蛍の妹の一人である花穂が、咲耶達から数刻遅れて、学校から帰ってきた。
「お兄ちゃま……花穂、また失敗しちゃった」
しばらくの間、花穂は、無表情の少年に話しかけ続ける。
「それじゃあね、お兄ちゃま」
静かにそう言うと、花穂は、自分の部屋に戻っていった。



その頃、蛍は、不思議な世界にいた。
人も建物も何もなく、真っ暗な世界。
蛍以外は、誰もいない。
「ここは……どこなんだ? 暗くて、静かで、誰もいない」
歩いても歩いても、一筋の光すら見当たらない。
「無駄です。この世界に出口はない」
「誰だ!?」
蛍が慌てて声のする方に振り向くと、そこには、一人の少女が立っていた。
「そんなことはどうでもいいことです」
本当に『どうでもいい』という様子で話す少女。
ただの無関心なのか、ただ冷静なだけなのかは、定かではない。
「ここはどこなんだ?」
「一言で言うなら……闇の世界。永久に続く……闇の世界」
「妹達はどこにいるんだ?」
蛍は、この暗闇の世界に来てから、一番気になっていたことを質問する。
「妹? ここには、そんなものは存在しません。この世界にあるのは、あなたと私の存在……そして、永遠に続く闇だけ」
静かにそう言うと、何の前触れもなく、少女の姿は、闇に溶けるように消えていった。
「待ってくれ! ここは一体なんなんだ!?」
そう叫んだと同時に、蛍の意識は途絶えた。

続く



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