植物人間
第5話 異次元への入口



「何か分かったか? 千影」
「いや」
「そうか」
目の前の分厚い本と格闘しながら、その合間に蛍が千影に問い掛ける。
そんなやりとりが、すでに10回以上も続いている。
この図書館、中が広いのはもちろんのことだが、なにより驚くのは、本のジャンルとその数である。
政治、経済、歴史、物理、古典、音楽、美術、家事、育児、娯楽、そしてオカルト。
この他にも、言い出したらきりがないほどのジャンルがある。
しかも、そのジャンルの中からさらに細かく(例えばそれが娯楽なら、インターネット、漫画、アニメ、ゲームなどが別々に)分けられている。
すべての本の冊数を合わせると、軽く見積もっても、ゆうに10万冊以上はあるだろう。
蛍と千影は、その中で『オカルト』のコーナーの本を、1冊1冊、どんな細かい事件1つでも見逃さないように丁寧に見ていった。
しかし、オカルトだけでも数えられないほどの本がある。
その膨大な数の本1冊ずつに目を通していくのだから、当然膨大な時間がかかってしまう。
「あのさ、千影」
ふと、蛍が作業を止めて千影に話し掛ける。
「なんだい? 兄くん」
千影は作業を止めずに聞いている。
「この図書館って、なんで時計と窓がないんだ?」
そう、この図書館には、入口以外の扉や窓もなければ、時計などの時間がわかる物もない。
「フフフ……知りたいかい……?」
不気味な笑みを浮かべながら蛍に問い返す千影。
「ああ……き、聞かせてもらえるかな?」
この時点ですでに、蛍の声は少し裏返っている。
「フフフ……ここは昔、『異次元への入口』と呼ばれていてね。 毎年数え切れない人が、この図書館に迷い込み……行方不明になっていたんだ」
千影は、冷静に語っていく。
「そ、それで……?」
すでに兄の声は完全に裏返り、体は小刻みに震えている。
「この部屋に窓がないのは……迷い込んだ人間を閉じ込めておくためだと……言われている」
ここまで、全く表情を変えずに話す千影。
「と、時計がないのはどうしてなんだ?」
図書館の中で冷静に怪談話をする少女と、それを震えながら聞く少年。
傍から見ると、異様な光景だろう。
そんなことはお構いなしに、淡々と語っていく千影。
「時計がないのは……閉じ込めた人間を、さらに絶望させるためだと……言われている。 『時』が分からないと……人間の精神は、不安定になるからね。 そして最後には……いつまで続くのか分からない暗闇の中で、精神が崩壊して……フフフ」
話をしていた千影は、いつにも増して楽しそうだった。
その吸い込まれそうな瞳に、蛍は魅了されていた。
「どうしたんだい? 兄くん」
蛍は、不思議そうに自分の顔を覗き込む千影の声で我に返った。
「え……あ、いや、なんでもないよ」
まさか『千影に見惚れてた』などと言えるはずもなく、必至にごまかす蛍。
「そうかい……? それならいいんだが」
どうやら千影は全く気付いていないようだ。
普段は異常なほどに鋭い千影だが、なぜかこういうことには『超』が付くほど鈍い。
そういう所は、蛍にそっくりである。
もっとも、どちらにも自分がそうだという自覚は全くないのだが。
「さて……そろそろ作業を再開しようか。 こうしてる間も、時間は待っては……くれないからね」
何時の間にか千影は、いつもの無表情な顔に戻っていた。
「そうだな。早く『暗黒の迷宮』にいる『もう1人の千影』を助けないとな」
その言葉を合図にしたかのように、2人はまた『シャドウ』について調べ始めた。




その頃、家では咲耶と可憐の2人が、蛍と千影の帰りを待っていた。
「咲耶ちゃん……お兄ちゃんと千影ちゃん、帰ってくるのが遅すぎませんか?」
2人が家を出てから7時間ほど経ち、時間は夜の10時を過ぎている。
そのため、可憐は心配になったのだろう。先程から、全く落ち着きがない。
「大丈夫、あの2人ならきっと心配ないわよ」
落ち着きのない可憐に対して、事の事情を知っている咲耶は至って冷静である。
そのため、落ち着かない可憐に咲耶が大丈夫と声をかける……そんなやりとりが、すでに数え切れないほど行われている。
この時、咲耶はまだ他の妹たちに事件の真相を伝えていなかった。
できることなら、妹を危険な目には会わせたくないという気持ちが咲耶の中にあったのだろう。
次第に、2人の会話も途切れ、居間には、静かに一定のリズムを刻む時計の音だけが響いていた。




「ダメだ、全然見つからない。千影の方はどうだ?」
「こっちもだめだよ」
「そうか」
すでに2人が読み終わった本を合計すると、軽く10〜20冊はいっているだろう。
しかも、その内のほぼすべてが国語辞典並に分厚い本ばかりなのだからすごい。
と言っても、3分の2以上は千影の読んだ本なのだが。
「千影、今何時ぐらいか分かるか?」
「草木も眠る……丑三つ時」
楽しそうにそう言う千影。
「あ……あははは」
あまりに予想どうりすぎる千影の反応に呆れる蛍。
しかし、会話をしている時も作業の手だけは休めない2人。
「冗談だよ……フフフ。今は大体……夜中の2時ぐらいだよ」
千影が言うと冗談に聞こえない所が、彼女の怖いところかもしれない。
「もう夜中の2時か。ところで、何で時計もないのに、今の時間が分かるんだ?」
先程も言ったとうり、この図書館には時計などは無く、蛍と千影が何か時間の分かる物を身に付けている訳でもない。
当然と言えば、当然の疑問だろう。
「知らないほうが……いいと思うけど。兄くんが、どうしてもと言うなら」
その割には話したくてうずうずしている千影。
「結構です」
きっぱりと断る蛍。
おそらく、身の危険を本能的に察知したのだろう。
「そうかい? 聞きたくなったら……いつでも言ってくれ」
残念そうな顔つきでそう言う千影。
ここで数十秒会話が途切れた。
完全な沈黙。風の音すら聞こえない。
目を閉じたら、自分がここにいるのかどうかさえ分からなくなってしまいそうなほど静かな世界。
精神が弱い人間なら、30分と経たずに精神が崩壊してしまうかもしれない。
長い沈黙を破ったのは蛍だった。
「千影、他の妹も心配するだろうし、今日のところはそろそろ帰らないか?」
「そうだね。続きは明日にして……今日は帰ろう」
千影がそう言うと、2人はそれぞれ自分達が読んだ本を片付け始めた。




「お兄様、千影ちゃん……遅いわね」
あれからすでに5時間が経過していた。
さすがに限界が来たのか、1時を過ぎた頃に、可憐も眠りに就き、 今この家で起きているのは、咲耶一人だけになってしまった。
そういう咲耶も、もう何度も眠りそうになってしまっている。
あまりに帰りが遅いため、つい、事故にでも会ってなければいいけど……などと考えてしまう。
一定のリズムを刻む時計の音が、余計に咲耶の不安を駆り立てる。
しかし、いくら心配をしようとも、今の咲耶にできることは、千影と蛍の二人を信じて待っていることだけだった。




「さて、これで全部元の場所に戻したな」
2人が本を片付け始めてからすでに約1時間が経ち、時間は朝の3時ぐらいになっていた。
「きっと咲耶ちゃん辺りが……心配してるだろうからね。急いで戻ろうか、兄くん」
「そうだな」
2人は、図書館から出ると急いで帰路についた。
しばらくの間、2人の間には会話が無く、歩くときに出る足音と服の擦れあう音だけが響き渡っている。
長く、永遠に続くかとも思えた沈黙を破ったのは千影だった。
ふと、その場に立ち止まる千影。それを見て、蛍もその場に立ち止まる。
「兄くん。1つだけ……聞いてもいいかな?」
めずらしく、千影が蛍に質問する。
「千影が俺に質問なんてめずらしいこともあるもんだね? 明日は雨かな?」
冗談交じりに、千影をからかう蛍。
「実は最近……人間を呪い殺す魔術を発見したんだ。兄くんも……体験してみるかい?」
千影は、心底楽しそうにそう言った。
「いえ、ご遠慮させていただきます」
本気で焦る蛍。蛍は、『千影を怒らせてはいけない』と自分に言い聞かせていた。
「さて、冗談はともかく。俺に聞きたいことって何かな?」
急に真剣な顔に戻る蛍。
「たいしたことじゃ……ないんだけどね。兄くん、 この図書館に入る前までは……私のことを『影千影』と呼んでいたのに…… なぜ急に、『千影』と呼ぶようになったのかなと……思ってね」
確かに蛍は、この図書館に入る前ぐらいから、もう1人の千影のことを『影千影』ではなく、『千影』と呼んでいた。
「特にこれと言った理由は無いんだけどね。『影千影』だとちょっと呼びにくいし、 なにより、例え分身だろうと、同じ『千影』に変わりはないからね」
「兄くんらしい答えだね」
軽く微笑みながらそう言う千影。
そして、すぐに元の冷静な表情に戻り話を続ける。
「これ以上遅くなると……さすがにまずいだろうからね。少し……急ごうか、兄くん」
「そうだな」
会話を終えた2人は、少し急ぎ足で帰り道を歩き出した。

                      
続く



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