狂った愛情



「……弟くん弟くん弟くん弟くんおとうとくんオトウトクン……」
暗く静かな部屋の中を、少女の止まることのないつぶやきが支配する。
その口は最愛の恋人(義之)の名前を呼び続け、その手は机に置かれたノートに最愛の恋人(義之)の名前を書き続ける。
「……弟くん。どうして私だけを見てくれないの? どうしてあんなメス豚達の色仕掛けに引っかかっちゃうの?」
カリカリカリカリ。
音姫が走らせるペンの音だけが、静かな部屋の中にただひたすらに響き渡る。
「……そっか。そうなんだね」
数分とも数時間とも取れる時間ペンを走らせ続けていた音姫が、ふいにその手を止める。
そして、何かを悟ったかのような表情で、無表情だった顔を変化させた。
「……うふふ、うふふふふふ……そうだよね、そうなんだよね」
それは、普段の優しく温かい微笑みからはほど遠い。
誰が見ても恐怖しか覚えないであろう不気味な雰囲気を纏った微笑みであった。
「……弟くんが私だけを見てくれなくなっちゃったのは、 あのメス豚達に何か弱みを握られているからなんだね、そうなんだね、うん、そうに決まってるよ。 じゃなきゃ、私だけの弟くんが私を見てくれなくなっちゃうはずないもの そうに決まってるわなんて可哀想な弟くんいまお姉ちゃんが助けてあげるからね そうしたらまた昔みたいに一緒に暮らそうね弟くんおとうとくんオトウトクン……」
何度か最愛の恋人(義之)の名前を呼んだのち、音姫はしばし沈黙する。
その沈黙が何を意味しているのかを推し量ることは音姫以外にはできない。
やがて、数秒か数分か分からない長い時間沈黙を続けていた音姫が、静かに座っていた椅子から立ち上がる。
「……私の弟くんを惑わすメス豚は、しっかり駆除してあげないとね」
静かにそう口にした音姫の瞳には、すでに生気というものが全く感じられなかった。
最愛の恋人(義之)を自分ひとりだけのものにするという感情だけが、今の音姫の生きている理由に他ならなかった。
「……それじゃ、行ってくるね、弟くん♪」
机に置かれた最愛の恋人(義之)の写真に別れの挨拶を告げ、音姫はゆっくりと自分の部屋をあとにした。
それから十数分後、朝倉家の台所にあったはずの包丁が数本なくなっていることに帰宅した由夢が気付いた。


「うん、だから昨日は大変だったんだから〜」
「全く、渉は相変わらずバカなヤツだなぁ」
いつものように登校した小恋が下駄箱を開けると、そこには、
『月島さんへ。大切なお話があるので、今日の放課後5時に、特別校舎の××教室へ来てください 音姫』
という手紙が入っていた。
「ん? どうした? 小恋」
小恋の様子が変化したことに気付いた義之が小恋に問いかける。
「ううん、なんでもないよ、義之」
「……? そっか、ならいいんだけど」
音姫先輩が私に何の用だろう?
そう思った小恋であったが、義之に余計な心配をかけたくないと思い、あえて手紙のことを義之に伝えることはしなかった。


放課後。
手紙で呼び出された××教室で、小恋は呼び出した張本人である音姫を待っていた。
「……音姫先輩、遅いなぁ」
すでに約束の時間を30分以上過ぎているが、一向に音姫が現れる様子はなかった。
ひょっとして、音姫先輩を装った誰かの悪戯だったのかな?
そう小恋が思い始めていたとき。
ふいに、教室の扉が開かれる音とともに音姫が姿を現した。
「あ、音姫先輩。私に何かご用ですか?」
「…………」
小恋の問いかけには答えず、音姫はゆっくりと小恋へと近づいていく。
「あ、あの、音姫先輩? 一体どうし」
「……さよなら、月島さん」
一瞬だった。
小恋が、『一体どうしたんですか? 音姫先輩』と言おうとした瞬間。
一気に小恋に近づいた音姫は、その手に隠し持った大きな包丁で小恋の心臓を貫いた。
「……っ!? お、おとめ……せん……ぱ……なに……を……っ」
突然の出来事に、小恋は状況を理解することができない。
そんな小恋の様子を見て、音姫が唐突に小恋に話しかける。
「うふふ……私がなんでこんなことをするのか分からない、って顔してるね」
あまりの激痛で意識を保つことすら難しい今の小恋には、音姫に反論する気力すら残っていなかった。
それを理解している音姫は、さらに小恋に追い打ちをかける。
「知りたい? 知りたいよねぇ。自分がなんで殺されちゃうのかぐらい。 でも、教えてあげない。それが、私から弟くんを奪ったあなたへの罰だから」
感情すら感じさせない冷たい瞳で、音姫は小恋を見下ろしている。
そんななか、血を流しながら倒れる小恋が、虚ろな目で言葉をつぶやいた。
「……よし……ゆ……き……たす……け……て……」
それは、この場にいない想い人への懇願。
しかし、その願いが叶うことは未来永劫ない。
なぜなら彼女は、音姫という最悪の死神に目を付けられてしまったのだから。
「うふふ。いくらお願いしても、弟くんは助けには来てくれないよ。 だって弟くんは私の恋人さんなんだから。恋人さん以外の人のお願いを聞くなんていけないことだもんね」
満身創痍の小恋には、もはや音姫の声は届いていない。
音姫もそれを理解しており、これ以上小恋と会話をする気はないようだった。
「それじゃ、今度こそ本当にさようなら、月島さん♪」
その瞬間、笑顔の音姫が振りかざした包丁が、倒れる小恋の心臓を再び貫いた。


「……音姫先輩?」
小恋にトドメをさした音姫の後ろから、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「あら、雪村さんじゃない。ちょうど良かった、今からあなたを呼び出そうと思っていたのよ」
数秒前に人をひとり殺した者のセリフとは思えないほど、音姫は『いつも通りの音姫先輩』だった。
それが余計に、杏の頭を混乱させることとなった。
「……音姫先輩。そこに横たわっているのは小恋……じゃないんですか?」
音姫のそばで血を流して倒れている小恋を見て、杏がそう音姫に問いかける。
その問いかけに、小恋がまだ生きていて欲しいという懇願にも似た感情があったことは容易に想像できた。
「そうだよ? それがどうかしたの?」
「どうかした、って……」
一瞬杏には、音姫の言葉の真意が理解できなかった。
いや、理解できなかったというのは正しくない。
あの全校生徒が憧れる『生徒会長音姫』の姿と、目の前にいる少女の姿のギャップを受け入れることができなかったのだ。
「私が、月島さんを、今ここで、殺したの」
「な……」
あまりにもあっけなくその事実を口にした音姫の言葉に、さすがの杏も動揺を隠せなかった。
しかし、動揺し続けていても事態は好転しない。
そう判断した杏は、脳をフル回転させて現状を理解しようと試みる。
「うふふ……私って運がいいなぁ。邪魔なメス豚達を二人も同時に始末できるんだもの」
「……きゃっ!?」
完全な油断だった。
目の前の相手が本当にあの音姫先輩なのか。
その一瞬の心の迷いが、音姫に、自分を押し倒し拘束するだけの隙を与えてしまったのだ。
「お、音姫先輩、なにを……」
「なにって……分かっているんでしょう? あなたは今ここで、私に殺されるのよ。私の弟くんをたぶらかした罪で、ね」
自分より身体の大きい音姫に覆い被さられているため、杏は身動きを取ることができない。
そんな杏には、音姫と会話をして説得することしか選択肢が残っていなかった。
「音姫先輩。今ならまだ間に合います。自首してください」
音姫にまだ良心が残っていることを期待しての杏の必死の説得。
しかし、音姫から返ってきた言葉は、杏の期待とは大きく異なったものだった。
「自首? そんなのするわけないじゃない。だって、私は何も悪いことなんてしてないもの。 私がやってるのは害虫の駆除だもの。虫さんが殺されたって、怒る人はいないでしょう?」
全く悪びれる様子もなく、音姫はそう杏に語りかける。
音姫の中では、最愛の恋人(義之)を奪う相手に人権など存在していないのだ。
「……あなたのような最低な人間を今まで尊敬していた自分の無神経さを呪いたい気持ちで一杯です」
「うふふ、褒め言葉として受け取っておくね。さようなら、雪村さん♪」
杏の精一杯の皮肉など意に介さず、音姫は躊躇なく手に持った包丁を杏の心臓に突き刺した。
その瞬間、杏の身体から流れ出る血液が教室一面を赤く塗りつぶした。


「弟く〜ん! 早く行かないと遅刻しちゃうよ〜?」
「ああ、今行くよ、音姉!」
いつもの平日の朝。
芳乃家の前で音姫が、義之が出てくるのを待っていた。
しばらく待っていると、慌てた様子の義之が扉を開けて現れた。
「ごめんごめん、弁当を作ってたら遅くなっちゃってさ」
「もう、そういうのは早めにやっておかないとダメだよ?」
「いや〜、ほら、俺ってインスピレーションに従って生きる男だからさ」
「それでも、遅刻したら意味がないんだからね?」
「たまにはそういうのもいいんじゃない?」
「ダメです。規則はちゃんと守らないといけないんだからね?」
「はは、分かってるって」
何気ない朝のやりとり。
いつも通りの平和な日常。
ただひとつ違うことと言えば。
「……小恋と杏と茜、一体どこに行っちまったんだろうな」
そう。
数日前のある日から、小恋、杏、茜の三人が忽然と風見学園から姿を消してしまったのだ。
義之を含めて三人と仲の良かった友人達は、突然の出来事に動揺を隠せなかった。
三人が消えてから数日間、友人達は三人の行方を捜し続けていたのだが、結局三人の消息をつかむことはかなわなかったのだった。
「あの三人ならきっと大丈夫だよ。なにせ、風見学園要注意人物ベスト3な人達の友達なんだから。そのうちひょっこり戻ってきて、事情を説明してくれると思うよ」
「……そうだよな。あいつらなら、心配する必要なんて何もないよな」
音姫は義之に嘘をついた。
しかし、その音姫の嘘を見破れる人間は、もはやこの世には誰もいない。
そう、音姫本人以外には。
「って、急がないと遅刻だよ! 弟くん!」
「うわ、ホントだ! 急ごうぜ、音姉!」
「うん、弟くん!」
そうして、いつものように、音姫と義之は遅刻ギリギリの通学路を走っていく。
それは、何の変哲もない、平和な日常の風景に他ならなかった。
「…………よ」
「ん? 何か言った? 音姉」
「ううん、なんでもないよ、弟くん」
「……? そっか、ならいいんだけど」
義之には聞き取ることができなかったが、音姫は確かに、『……二人で幸せになろうね、弟くん……愛してるよ』と言った。
もっとも、聞こえていたとしても、義之にはただの冗談にしか聞こえなかったに違いない。
しかし、そう遠くない未来に、義之は嫌でもこの言葉の意味を理解することになるだろう。
愛に狂った音姫による、狂った形の愛情表現によって。


終わり



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