ある日の山での出来事



「……俺、なんでこんなことをしてるんだろうな」
時は平成の現代。
そんな現代においてすでに実行に移す人間は少ないであろうイベントを、義之は体験していた。
「や、今さら文句を言っても仕方がないですって」
「まあ、そうなんだけどさ」
隣の由夢が、義之の苦言に正当な意見を述べる。
もっとも、そう言った由夢も、なぜこんな状況になってしまったのかと後悔しているに違いない。
そんな義之達が、一体何のイベントを体験しているのかと言えば。
「もう、二人とも。文句を言わないの。 せっかくのハイキングなんだから、楽しまなきゃ損だよ?」
そう。
義之・音姫・由夢の三人は、この文明社会の休日に、初音島内にある山へとハイキングに来ていた。
このイベントが可決された理由は簡単だ。
家族の親好を深めるためのイベントはないかと考えた音姫が、 山でハイキングなんて楽しそうだね、という意見を発表したのだ。
三人の中で最も発言力を持っているのが音姫だったため、 義之と由夢の二人は、音姫の意見に逆らうことができず今に至るというわけである。
「まあ、そうだな。せっかく来たんだし、文句ばかり言っていても仕方がないか」
「そうだよ、弟くん。久しぶりの家族水入らずの時間なんだから」
「そうだね。状況に適応するのも大切だよね」
実際、音姫と由夢の三人で過ごす時間は、義之にとっても楽しいものだ。
口では文句を言ってはいるものの、これからの時間が楽しみなのも事実だった。
「さて、それじゃ、早く頂上に着いちゃおう」
「ああ、そうだな」
「ええ、そうですね」
そんな音姫の意見を聞き、三人は、頂上に向けて歩みを進める。
目的地まであと少し。
辛い山の傾斜も、このあとに待っている時間を想像すれば、不思議と我慢できるような気がした。


程なくして、頂上に到着した三人。
時刻はちょうどいいお昼時ということで、三人は、音姫が作った昼ご飯を食べることにした。
シートを地面にひき、その上に弁当箱を広げる。
「さあ、いっぱい食べてね、二人とも」
そう言って、音姫は弁当箱のフタを開ける。
中からは、さすが音姫と言えるであろう見事な中身が並んでいた。
「さすが音姉。上手そうな弁当だね」
「えへへ。頑張って作ったから、味わって食べてね」
「ああ。美味しくいただくよ」
美味しそうなおかずの数々に、自然と食欲が刺激されるような気がした。
「はい、弟くん。あ〜ん」
恋人同士の定番。
ラブラブな恋人同士にだけ許されたイベント。
そんなイベントを、音姫が義之に発生させる。
「いや、自分で食べれるって」
「……弟くんは、お姉ちゃんに食べさせてもらうのは嫌?」
「……うぅ」
悲しそうな音姫の顔。
そんな音姫の表情を見てしまったら、もはや義之に拒否することなどできようはずがなかった。
「はい、あ〜ん」
「あ、あ〜ん」
覚悟を決めて、義之は、差し出されたハシに口を付ける。
瞬間、口に入ったおかずの味が口の中に広がった。
「美味しい? 弟くん?」
「お、美味しいよ、音姉」
「うふふ。ありがとう、弟くん」
心底幸せそうな音姫。
そんな音姫の笑顔を見られただけで、恥ずかしさも吹き飛んでしまうような気がした。
「…………」
「……ん? どうした? 由夢」
幸せそうな二人の様子を見ていた由夢の視線が義之をとらえる。
義之の問いかけにも応えずしばらく無言を貫き通す由夢。
しばらく無言を貫いていた由夢が、意を決したように行動を起こす。
「に、兄さん!」
「は、はい」
「に、兄さん。あ、あ〜ん」
恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら、由夢も音姫と同じように、義之に恋人の儀式を実行する。
恥ずかしそうにする由夢を、義之は素直にかわいいと感じていた。
「ほら、兄さん。あ〜ん」
「……あ、あ〜ん」
再び覚悟を決めて、義之は、差し出されたハシを口に含める。
瞬間、口に入ったおかずの味が口の中に広がった。
「…………」
「…………」
義之も由夢も、恥ずかしさで顔が真っ赤になっていた。
音姫にしてもらうそれと、由夢にしてもらうそれでは、微妙に恥ずかしさが異なるようだった。
「……お、美味しいよ、由夢」
「……あ、ありがと、兄さん」
微笑ましい風景。
恥ずかしくもあり嬉しくもある、そんな風景を見て、音姫は一人微笑んでいた。


「さて、それじゃ、そろそろ降りようか」
時刻は夕刻過ぎ。
頂上で微笑ましいピクニックを終えた三人は、山を下りる準備を始めていた。
「そうだな。暗くなる前に帰らないとな」
「そうですね。夜の山は危ないですからね」
実際、夜の山には危険がつきものだ。
何が起こるか分からない以上、暗くなる前に下山するべきであろう。
片付けを的確にこなし、三人は、元来た道を下山していく。


「……霧が出てきたね」
順調に下山していく三人。
だが、そんな三人を嘲笑うかのように、周囲からは白い霧のようなものが発生していた。
「二人とも、離れるなよ!」
「うん、弟くん」
「ええ、兄さん」
互いに離れないように、視界が悪い霧の中を慎重に歩く。
ゆっくりと、ゆっくりと、お互いを見失わないように。
だが、歩くたびに霧は深くなり、もはや近くに二人がいるかどうかさえ判断できなくなっていく。
「……? 音姉? どこだ!?」
慎重に歩き続ける義之は、近くに音姫の姿がなくなったことに気付いた。
確かに一緒に歩いていたはずなのに。
しかし、辺りは深い霧が支配しているのだ。
一緒に歩いていたと思っていても、知らないうちにはぐれてしまったのかもしれなかった。
「由夢! 音姉はどこに行った!?」
「分からない! さっきまで一緒に歩いていたはずなのに……!」
由夢に確認するが、由夢の方も、音姫がどこに行ったのかは知らないらしかった。
義之の中で、最悪の状況が頭を過ぎる。
それは由夢も同様のようで、声をあげて音姫に呼びかける。
だが、いくら叫びかけようとも、音姫の声が返ってくることはなかった。
「……由夢。由夢は先に下に降りててくれ。俺は音姉を捜してから行く」
「そんなの危険すぎるよ! 私も一緒に捜す!」
「ダメだ! この状況で、由夢まで危険にさらすわけにはいかない」
「この濃霧の中で一人で降りる方が絶対危険だよ!」
実際、足下もおぼつかないような霧の中、一人で下に降りるのは危険以外の何者でもないだろう。
義之もそれを理解しているため、自分の意見を訂正することにした。
「……そうだな。この状況ではぐれるのは危険だしな。一緒に音姉を捜そう」
「うん。心配しなくても、お姉ちゃんならきっと大丈夫だよ」
「……ああ。音姉ならきっと大丈夫だよな」
この状況で、音姫が無事な保障などどこにもない。
だが、そう言って自分を納得させるしか、二人が平静を保つことができないのも事実だった。
「音姉! いたら返事をしてくれ!」
「お姉ちゃん! 近くにいたら返事をして!」
呼びかける。
「音姉! 返事をしてくれ! 音姉!」
「お姉ちゃん! 返事をして! お願い!」
ただひたすら、呼びかける。
無駄かもしれない。
すでに音姫は近くにはいないのかもしれない。
だが、今の二人には、ただ呼びかけ続けるしかできなかった。
「音姉! 頼む! 返事をしてくれ!」
「お姉ちゃん! お願いだから返事をして!」
何度目かも分からない呼びかけ。
まだダメなのか?
あと何回呼んだら音姉は返事をしてくれるんだ?
そんな絶望にも似た感情を義之が感じているとき。
「……弟くん?」
二人の耳に、聞き慣れた声が聞こえてきた。
そう、必死に探し続けていた、音姫の声と姿が。
「音姉!」
「お姉ちゃん!」
最悪の事態にはならずに済んだ。
二人は、ただひたすら、そのことを考え安堵していた。
「……? どうしたの? 二人とも、そんなに慌てちゃって」
二人の安堵など知らぬ存ぜぬといった様子で、音姫は冷静を保っていた。
とても、今の今まで行方不明になっていた人間の様子とは思えなかった。
「どうしたのって……急にいなくなって心配したんだぞ!?」
「そうですよ! 私達、凄く心配したんですから……」
実際、音姫がいなくなってからの二人の取り乱し方は半端ではなかった。
当然だろう。
大切な家族が突然消えてしまったのだ。
取り乱すなという方が無理な話だ。
「心配させちゃってごめんね、二人とも。私は大丈夫だから、安心して?」
そこには、二人を安心させる音姫の微笑みがあった。
そんな音姫の表情を見てしまったら、もはや二人に、音姫を責める言葉は見つからなかった。
「いや、音姉が無事でホントに良かったよ」
「ええ。最悪の事態も想像していましたから……」
「うん、本当にごめんね。これからは絶対に離れないようにするから」
「ああ。そうしてくれると助かるよ」
「もう絶対に離れないでね、お姉ちゃん」
そこで、この話題はいったん終了した。
過ぎたことをいつまでも気にしていても仕方がないと判断したのかもしれない。
「さて、それじゃ、急いで降りようか」
「うん、弟くん」
「ええ、兄さん」
義之のその言葉を合図にして、三人は、慎重かつ迅速に山を下りる作業を再開した。


深い霧のせいで正確な距離や時間は分からなかったが、 ふもとが近いという感覚だけは本能的に理解できていた。
「……? 霧が……はれてきた……?」
三人がふもとに近づいたことを合図にしたかのように、 辺りを覆い尽くしていた濃霧が静かに発散していく。
少しずつ、少しずつ、濃霧ははれていき、数分後には、 何事もなかったかのような視界が周囲に戻ってきていた。
霧がはれた周囲に見える景色は、登山する前に見た、山のふもとの風景であった。
「ふぅ。ようやくふもとまで降りて来られたみたいだな」
「ええ。一時はどうなることかと思いましたけど、無事に降りられて良かったですね」
なんとか無事に下山できた。
義之と由夢は、その事実にただひたすら安堵していた。
だが、数秒安堵していた二人は、周囲の景色の不自然さに気がつくことになった。
「……? なんだか周囲が騒がしいな」
「そうですね。何かあったんでしょうか?」
山のふもとでは、なにやら、何人もの人々が慌ただしく周囲を駆け回っていた。
まるで、重傷者でもいるかのような様子で。
気付くと、一緒に山を下りていたはずの音姫の姿はどこにもなかった。
「……お、おい、由夢」
「……? なんですか? 兄さん?」
しばらくその人の流れを見ていた義之は、『ある事実』に気付いてしまった。
気付きたくなかった、できれば気付かずにいたかった最悪の事実に。
「あ、あれ……あそこで運ばれてるの……音姉じゃないか……?」
「……え?」
義之が何を言っているのか分からない。
最初由夢の頭の中では、そんな思考が展開されていた。
だが、分からなかったのも数秒のこと。
すぐに、目の前の現実に気付かされることになる。
「お、音姉!!」
「お、お姉ちゃん!!」
二人の叫び声が重なった。
しかし、そんな些細なことを気にする暇もなく、 義之と由夢は、横たわって救急車らしきものに運ばれる音姫の元へと走り寄った。
「ん? なんだ君たちは? この人は怪我をしてるから、 これから病院に運ばないといけないんだ、どいてどいて!」
近くまで来て、運ばれているのが音姫だということが、嘘偽りのない事実だと分かってしまった。
勘違いであって欲しかった事実が、現実となって二人の心に押し寄せてきていた。
「お、音姉は!? 音姉は大丈夫なんですか!?」
「怪我が酷いから、急いで運ばないと危険なんだ。分かったら、邪魔をしないで!」
救急隊員の言葉通り、音姫の身体は、至る所から出血していた。
素人目で見ても、早急な措置が必要だと分かるほどに。
「お、お姉ちゃんは……お姉ちゃんは助かるんですよね!?」
「それはまだ分からない。だが、最善の治療はするつもりだよ」
それだけ言って、音姫を乗せた救急車は、その場を走り去って行った。
あとに残されたのは、呆然とその場に立ちつくす義之と由夢の姿だけであった。
「……音姉」
「……お姉ちゃん」
分からないことだらけだった。
なぜ音姉があんなことに?
なぜお姉ちゃんがあんなことに?
あのとき、確かに音姉は俺達と一緒に下山していたはずなのに。
あのとき、確かにお姉ちゃんは私達と一緒に下山していたはずなのに。
分からないことだらけで、頭が破裂しそうだった。
だが、いくら考えても、答えらしき答えは見つからなかった。
二人に今できることは、音姫が無事に帰ってきてくれることを祈ることだけしかなかった。


それから数日後。
医師の懸命な治療の末、音姫は命を取り留めた。
だが、そのときの記憶は、音姫の脳から完全に消えてしまっていた。
その日、誰とどこに行ったのかさえ、音姫は覚えていなかったのだ。
謎が多すぎた事件は、最後まで謎を残して終わる結果となった。
謎が謎を呼んだこの事件。
真実を知っているのは、ただ静かにたたずみ続ける山だけなのかもしれなかった。


終わり



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