恋する音姫はヤンデレの夢を見るか



「俺、小恋と付き合うことにしたんだ」
「……え?」
真剣な顔で、義之はそう音姫に告げた。
一瞬音姫は、義之がなにを言ったのか理解できなかった。
いや、理解できなかったというのは正しくない。
正確には、理解したくなかったというのが本当のところだった。
「う、嘘だよね? 弟くん?」
「嘘じゃない。俺は、小恋のことが好きなんだ」
嘘だと思いたかった。
嘘ならどれだけ良かったか。
しかし、義之の口調や表情から、それが嘘などではないことは容易に読み取れた。
だからこそ、そんな絶望的な言葉を、愛する義之の口から聞きたくはなかった。
「だ、だって、弟くん、あんなに私に優しくしてくれたじゃない」
「あれは家族としてであって、音姉に恋愛感情を抱いていたわけじゃないんだ」
「で、でも、弟くん、私を大切にしてくれるって……」
「それはもちろん今でも思ってる。でも、それは家族としてのことであって、 俺が好きなのは小恋だけなんだ」
絶望。
音姫の今の心を表現するには、その二文字だけで十分であった。
「そ、そんな……そんなことって!!」
絶望する音姫の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
義之にとって、音姫のこういう反応は予想の範囲内であった。
予想の範囲内ではあったが、それでも、 自分の行動がこれで本当に正しかったのかを完全に判断することはできなかった。
「うぅ……弟くん、嫌だよぉ! 私だけを見てよ、弟くん! ひっく……ぐすっ……」
音姫の瞳から流れる涙は際限なくあふれ出て、決して止まることはなかった。
数秒か数分か、それとも数時間か。
時間の感覚がなくなったように錯覚するほど、音姫は泣き続けていた。
やがて、一生分泣いたのではないかと思えるほど泣いたあと、 音姫の表情がゆっくりと静かに変化した。
「……そっか」
「……音姉?」
義之も、音姫の突然の変化に気付いた。
とはいえ、一瞬前まで泣いていた少女が急に泣くのを止め大人しくなったのだ。
義之でなくとも、何かしらの違和感のようなものを感じてしまうのは当然だろう。
「……そっかそっか。もう、弟くんは『私のもの』じゃないんだね」
恐怖。
義之の今の心を表現するには、その二文字で十分すぎるものであった。
「お、音姉、なにを」
義之が「なにを言ってるんだ」と言おうとした瞬間、義之の腹部に鈍い痛みが走る。
正体の分からない痛みが突然襲ってきたことで、義之の頭は混乱していた。
いや、混乱する余裕があったのは、最初の数秒だけだった。
鈍い痛みを感じて数秒後、義之は、その痛みの正体を知ることになる。
「お、おと……ねぇ……」
義之の腹部には、かなり刃渡りの大きいナイフのようなものが突き刺さっていた。
一体誰がこんなことを?
何のためにこんなことを?
そんなことはすでに分かり切っていた。
部屋の中には、義之と音姫しかいないのだ。
それを刺したのは、紛れもなく、今義之の目の前にいる音姫に違いなかった。
「うふふふ……私のものじゃなくなった弟くんなんて……『死んじゃえ』」
「お、おと……ね……」
そこで、義之の意識は完全に途絶えた。
死への恐怖と苦痛のなか、義之が最期に見た光景は、 恐ろしく冷たい微笑みを浮かべる音姫の顔であった。
「うふふ……弟くんは誰にも渡さないんだから。そう、誰にも……ね」
妖しい表情で静かに微笑む音姫を、光の消えた義之の冷たい瞳だけが見つめていた。
狂気に満ちた音姫の顔は、結婚を目前に控えた花嫁のような幸せそうな微笑みに満ちていた。
「……ずっと一緒だよ、弟くん」
二度と目を覚まさない最愛の人を抱きかかえ、音姫はただ静かに微笑むのだった。


終わり



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