小さくなった兄


今俺の前には、液体入りの1つの瓶が置いてある。
液体は、この世のものとは思えない怪しい緑色をしている。


『兄くん……これを飲めば、きっと今までのような苦労は……なくなるよ』
そう言って千影が差し出したのは、緑色の液体入りの瓶だった。
『飲むとどうなるんだ?』
『それは自分の目で……確かめてくれ。飲むのも飲まないのも……兄くんの自由だが、
決して……軽い気持ちでは、飲まないほうが……いいよ』
いつになく真剣な顔でそう言う千影。
そんな千影の様子に戸惑い気味の俺だったが、少し迷った後に頷いた。
『それでは兄くん……また来世』
そう言うと千影は、液体入りの瓶を俺に渡すとどこかに行ってしまった。


あの千影が「軽い気持ちで飲むな」と言ってたからな。
よく考えてから決めないと。
でも、「今までの苦労がなくなる」とも言ってたよな。
苦労がなくなるって、どういう意味だ?
だけど、苦労がなくなるんだったら……飲んでみるか。
……そう思ってしまったのがいけなかったんだ。
ここでやめておけば、あんなことにはならなかったのに。
「コップに注いで……と」
不気味な色をしている液体を前にすると、どうしても飲むのをためらってしまう。
だが、いつまでも悩んでいても仕方がない。
そう自分を納得させると、俺は緑色の液体を一気に飲み干した。
「ん……? なんだか……眠くなって……きた」
緑色の液体を飲み干した俺は、酷い眠気に襲われ、そのまま倒れてしまった。
俺が目を覚ましたのは、それから2時間後のことだったらしい。



「ねぇ? この子は一体誰?」
「……う〜ん」
「目を覚ましたの? ねぇ、あなた一体誰?」
そこには、僕の知らないお姉ちゃんが12人もいました。
「お姉ちゃん達、誰?」
「あなたこそ誰なの? 人の家でなにしてるの?」
ツインテールのお姉ちゃんが怒ったような表情で僕にいろいろ聞いてきます。
「僕、蛍。影葉 蛍です」
「お兄様と同じ名前?」
「それどころか、名字までワタクシ達と同じですわ」
ツインテールのお姉ちゃんと、着物のお姉ちゃんがなにか話しています。
「あなたもしかして……お兄様?」
お兄様?
僕にはなんのことを言ってるのか全然わからなかったので、 「よく分かりません」って言ったら、今度は黒っぽい服を着たお姉ちゃんに、 ツインテールのお姉ちゃんがなにか聞いています。
「千影ちゃん? この子が誰だか分かる?」
「おそらく……兄くんだろうね。子供のころの……面影がある」
「やっぱりお兄様なの!?」
ツインテールのお姉ちゃんがなんだか驚いています。
「兄くん……あの薬を、飲んだんだね」
「あの薬って? 千影ちゃん?」
「私が兄くんに渡した……『退化』の薬だよ」
「なんでお兄様にそんな薬を渡したの!?」
ツインテールのお姉ちゃんがすごく怒っています。
黒い服のお姉ちゃんは常に冷静です。
「兄くんも……辛かったんだよ」
「お兄様が……辛い?」
「いつも私達妹に遊ばれて……道具にされて」
さっきまで無表情だった黒い服のお姉ちゃんが悲しそうな顔をしました。
なにか辛いことでもあったのかな?
「……」
突然みんな、なにもしゃべらなくなっちゃいました。
「雛子ちゃん、亞里亞ちゃん。その子といっしょに部屋で遊んでてくれない?」
「は〜い。行こう、蛍君」
「行きましょう」
僕と年齢が同じぐらいのお姉ちゃん達に連れられて、僕は部屋を出ました。
「ヒナは雛子だよ」
「亞里亞です」
なんだか対照的な2人だな。
雛子お姉ちゃんは活発で元気な感じがするし、 亞里亞お姉ちゃんは逆におとなしめでおしとやかな感じがします。
「僕は蛍です」
自己紹介が終わって、僕と2人のお姉ちゃん達は、しばらく部屋で遊んでいました。



「いつ元に戻るの? 千影ちゃん?」
咲耶が低い声で千影に聞く。
千影は、その様子に全く憶することなく返答する。
「体が元に戻ることは……ないよ」
「なんですって?」
咲耶の顔が強く強ばっていく。
その様子を予め予測していたように、千影が言葉を続ける。
「あの薬を飲んだら……二度と元の体には……戻らないよ。 なにかきっかけがあれば……記憶だけは、元に戻るかも……しれないが」
「どうやって?」
「それは……人に聞くものじゃない」
千影が、今までにないぐらい、低く、冷たい声で言う。
そのあまりの迫力に、さすがの咲耶も少し怯んでしまった。
「う……わかったわよ」
千影の表情を見て、咲耶はもう何も言い返すことができなかった。



しばらくして、咲耶お姉ちゃんが二人のお姉ちゃんを呼びに来ました。
「雛子ちゃん、亞里亞ちゃん。ちょっと来てくれる?」
「は〜い。ばいばい、蛍君」
「ばいばい」
「うん、また遊ぼうね」
二人が部屋から出て行ってしまって眠くなってしまったので、 僕は雛子ちゃんの部屋で眠ってしまいました。
次に僕が目を覚ましたときには、あたりは真っ暗で僕は別の部屋にいました。
見たこともない部屋に1人で取り残されている不安と恐怖のせいで、僕は泣き出してしまいました。
「ひっく……だれかぁ、怖いよぉ」
『ガチャッ』
「誰!?」
急に扉が開いたので、僕はとても驚いてしまいました。
暗くて、誰が入ってきたのかは分かりません。
「お兄……じゃなかった。蛍君、花穂と一緒に寝よう?」
声を聞いただけでは誰なのかよく分からなかったので、僕は、「誰?」と聞き直しました。
そしたら、「花穂だよ、蛍君。お昼にあったでしょ?」って答えてくれました。
花穂お姉ちゃんだったんだ。
誰かと思ってビックリしちゃった。
「花穂と一緒に寝よう? 蛍君」
「は〜い」
そして、花穂お姉ちゃんが、僕の寝ているベッドに向かって歩いてきます。
「きゃっ!?」
でも、なぜか花穂お姉ちゃんは途中で転んでしまって、僕のほうに倒れてきました。
花穂お姉ちゃんは僕より体が大きかったので、僕は花穂お姉ちゃんを支えられず、 花穂お姉ちゃんに押し倒されている形になっています。
「んっ」
倒れたときの反動で、僕と花穂お姉ちゃんの唇が重なってしまいました。
なんだか、すごくドキドキしています。
「お兄ちゃまと……キスしちゃった。ほ、ほたるくん、もう寝ようね」
気のせいか、花穂お姉ちゃんの声が少し高くなっている気がします。
「おやすみ、蛍君」
「おやすみなさい」
そして、僕と花穂お姉ちゃんは眠りにつきました。



このとき2人は知らなかった。
花穂と蛍がキスしていたのを、四葉が見ていたことを。
「花穂ちゃん……兄チャマとキスするなんて、許さないデス」
そう言った四葉の顔は、冷たく、怒りに満ち、そして、殺意すら感じられるほどだった。



次の日の朝、僕が起きたときにはもう花穂お姉ちゃんはいませんでした。
『ガチャッ』
「兄くん? 起きて……いるかい?」
扉が開いて、千影お姉ちゃんが入ってきました。
でも、「兄くん」って誰のことなんだろう?
「朝食ができたから、降りてきて……くれるかな? 兄くん?」
「兄くんって誰のことですか?」
僕がそう質問すると、黒い服のお姉ちゃんは「君のこと……だよ、蛍君」って答えてくれました。
いろいろ聞きたいこともあったけど、お腹が減っていたので、 とりあえず今は朝ご飯を食べに行くことにしました。
「いただきます」
12人が同時に言うと、ものすごい大音量になるんだね。
やがて、四葉お姉ちゃんが言いました。
「花穂ちゃん。昨日、兄チャマとキス……してましたね?」
え……なんで四葉お姉ちゃんが知ってるの?
「……え?」
急に場の空気が重くなって、みんな真剣な顔に変わっちゃいました。
「花穂ちゃん。それはどういうこと?」
咲耶お姉ちゃんが、花穂お姉ちゃんになにか聞いています。
「本当なの? 花穂ちゃん?」
可憐お姉ちゃんも、花穂お姉ちゃんに質問しています。
いくつも質問されて、花穂お姉ちゃんがかわいそうです。
花穂お姉ちゃんは、今にも泣きそうです。
「やめて、お姉ちゃん達」
「蛍君はだまってて!」
「……はい」
咲耶お姉ちゃんと可憐お姉ちゃん、 それに春歌お姉ちゃんと四葉お姉ちゃんに、ほぼ同時に怒られちゃいました。
僕は、無言でお姉ちゃん達に気付かれないように、自分の部屋に戻りました。
その間も、お姉ちゃん達は激しく言い争っていました。



「四葉は……花穂ちゃんを許さないデス!」
四葉が、普段とは全く違う怒りに満ちた声でそう言う。
「花穂は……花穂は」
対して、今にも泣き出しそうな花穂。
だが、そんな花穂の様子とは裏腹に、妹達は、自分の怒りを花穂へとぶつけていく。
「花穂ちゃん……ひどいです」
可憐も同じように続ける。
妹達に色々と言われて、すでに花穂は泣く寸前にまで追い込まれていた。
「いいかげんに……しないか!」
そんな時、今まで黙って傍観していた千影が、千影とは思えない声で妹たちを怒鳴りつける。
千影がここまで怒っていることに、ひどく動揺する他の妹達。
「兄くんは……これに毎日……耐えていた。文句一つ……言わずに。 君たちは……なんとも思わないのかい?」
初めてここまで感情を表に出して怒る千影を見て、妹達は黙り込んでしまった。
『パタンッ』
言いたいことを言い終わった千影は、もう用はないといった様子で部屋を出て行った。
突然のことに動揺する妹達は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。



「兄くん? 入るよ?」
「誰?」
「千影だよ……兄くん」
千影お姉ちゃんか。
千影お姉ちゃんは、優しいから好きだな。
なんだか、一緒にいると落ち着くし。
「やぁ、兄くん。さっきは……すまなかったね」
「なんで千影お姉ちゃんは、そんなに優しいの?」
「なんで……だろうね。私にも……よく分からないよ。 ただ、私はやはり……兄くんのことが……好き、なんだろうね」
「え……えっと」
きっと、僕の顔は今、真っ赤になっていると思います。
千影お姉ちゃんが好きなのは「兄くん」で、僕が「兄くん」なわけだから、 「兄くん」が好きだってことは、千影お姉ちゃんが好きなのは……。
でも、僕がそのことを口の出すことはありませんでした。
「じゃあね……兄くん。私はそろそろ……部屋に戻るよ」
もう行っちゃうんだ。
でも、お姉ちゃんも忙しいんだし、仕方がないよね。
「ばいばい、千影お姉ちゃん」
また一人になっちゃいました。
今度はなにをしようかな。
そうだ、ちょっと家の中を探検してこよう。
『ガチャッ』
えっと、まずは適当に歩き回ってみよう。
でも、なんでこんなに広いんだろう。
ん? あれは、咲耶お姉ちゃん?
「咲耶お姉ちゃん、こんな所でなにしてるの?」
「ああ、蛍君。ちょうどよかった、ちょっと手伝ってくれない?」
「は〜い」
「……フフフ」
なんだか、咲耶お姉ちゃんが妖しく笑っているような気がするけど、気のせいだよね。
「蛍君、この部屋に入ってね」
僕は咲耶お姉ちゃんの言うとうりその部屋に入りました。
『ガチャッ』
「なんで鍵を閉めるの? 咲耶お姉ちゃん?」
なぜか咲耶お姉ちゃんは扉の鍵を閉めてしまいました。
「うふふ……すぐに分かるわよ、蛍君」
そう言うと、咲耶お姉ちゃんは僕に近づいてきます。
そして僕は、咲耶お姉ちゃんに押されて、床に倒れてしまいました。
「思ったとうりね。今のお兄様は子供に戻っちゃってるんだから、当然私より力は弱い。 今のお兄様に、私を好きになってなんて言っても無駄でしょうし。 今のうちに、お兄様と関係を持ってしまえば、他の妹たちもお兄様のことはあきらめるわよね」
怖い。
なぜかは分からないけど、今の咲耶お姉ちゃんを見ていると、体が震えてくる。
そして、咲耶お姉ちゃんが、倒れている僕の上に乗っかってきました。
僕は、すぐにでも逃げ出したかったけど、 自分より大きい咲耶お姉ちゃんを僕が押しのけることなんてできないし、 なにより体が震えて動けませんでした。
「おとなしくしててね……お兄様」
そう言った咲耶お姉ちゃんの表情は悲しそうです。
「やめて……咲耶お姉ちゃん」
震える声でそう言ったけど、全く効果はありません。
「怖がらなくてもいいのよ……蛍君」
「いやだよ、やめて……やめてぇ!」
「どうしても拒否するのね。仕方ないわね」
そう言って咲耶お姉ちゃんは、バチバチと音の鳴っている物を取り出しました。
「少しの間眠っててね……お兄様」
『バチッ』
「ああっ!」
僕の意識は、そこで途絶えてしまいました。



「ふう。おとなしくなったわね。……え? 息を……してない? そんな……そんなつもりじゃ」
咲耶はあくまで、蛍を気絶させるためにスタンガンを使った。
しかし、咲耶が思っていた以上に、子供の体は刺激に弱かったようだ。
「誰か! 誰か来て!」
「どうしました!? 咲耶ちゃん!」
「お兄様が……お兄様が」
「これは……心臓が、止まっている!? 咲耶ちゃん! 早く救急車を呼んでください!」
「分かったわ!」
しばらくすると、救急車が来て、蛍を運んでいった。
それからすぐに、蛍は手術室へと運ばれた。
「咲耶ちゃん! なんであんなことをしたの!?」
可憐がめずらしく取り乱してそう言う。
「ごめん……まさか、こんなことになるなんて……思わなかったの」
そう言った咲耶に、いつもの強気な態度は見られない。
当然だろう。
たとえ外見は違ったとしても、この世で一番愛している相手を、 自らの手で危険に晒してしまったのだから。
「ごめんじゃ……ごめんじゃ済まないデス!」
普段は明るい四葉も、今回ばかりは激しく泣いていた。
泣きながら、原因となった咲耶を責め立てる。
「あまり咲耶ちゃんを……責めないで……あげてくれ。咲耶ちゃんも……辛かったんだよ」
普段は無口な千影だが、こういうときに妹たちをまとめるのは、千影が一番うまい。
千影の生きてきた年数を考えれば、当然といえば当然だろう。
「千影ちゃん……ありがとう」
「気にしないで……いいよ。姉妹……なんだからね」
いつもと同じ優しい顔で千影がそう言うと同時に、蛍が手術室から出てくる。
出てきた蛍の元に、蛍を心配する妹達が寄っていく。
「お兄様はどうなったんですか!?」
「残念ながら……ご臨終です」
「そんな……お兄様……お兄様ああ!」
このとき始めて咲耶は、心の底から泣いた。
今までにないぐらい、大声で泣き続けた。
他の妹たちも同様に、周りを気にせず泣き続けた。
大声で、何日も……何日も……泣き続けた。
だが、やがて泣き止み、そしてこう言うのだろう。
「もう、どうでもいいや」
……と。
蛍は子供に戻り、記憶がよみがえる前に、この世からいなくなってしまった。
いずれ妹達は、この日のことを忘れ、自分の道に進み、そして結婚もするだろう。
そして、最後にこう言うのだ。
「さよなら、私の愛した人」と。


終わり



もどりますか?