僕が眠り続ける理由?

そんなものは、とっくに忘れたよ。

あまりに長い時間、眠りすぎたせいでね。

もう、夢と現実の区別さえ、はっきりしない。

……だけど、僕にはそんなことはどうでもいいことだ。

夢は、僕を快楽へと導いてくれる。

……それだけで十分だ。

ここには、他の人間は誰もいない。

僕の邪魔をする物は、何もないのだから。



夢と現実



とある病院の、とある病室。
そこに、数年前から眠り続けたままの少年……『影葉 蛍』がいる。
少年は、特に病気というわけでもなく、至って健康だった。
……かと言って、事故などにあったわけでもない。
……原因不明。そうとしか、言いようがなかった。
ある日突然、昨日まで極普通に生活していた少年が、急に眠りから覚めなくなってしまったのだから。

しかし、全く見当がつかない……というわけでもなかった。
少年は、子供の頃から、多少の『人間不信』の気味があった。
そして、日が経ち、成長していくにつれて、少しずつ、人との関わりを持たなくなっていった。
親が少年のことを気にも留めていなかったことも、彼の『人間不信』を悪化させる要因となった。
……現に、今も生きている少年の親は、少年がこんな状態になっているにも関わらず、一度として見舞いなどに来たことはない。

そうして、日々溜まっていた怒り、悲しみ、憎しみなどの負の感情を抑えきれなくなったために、永い眠りに就いたのかもしれない……と、少年の担当医師は語っている。
いずれにせよ、少年は眠り続けている。
人の『温もり』を、知ってみたいと願いながら。





「……ねぇ、花穂?」
やや茶色の髪をした少年……『蛍』が、隣に座っている少女……『花穂』に話し掛ける。
「なぁに、お兄ちゃま?」
「なんで花穂は、僕にそんなに優しいの? それに、なんで『お兄ちゃま』なの?」
「お兄ちゃまが……そう『望んだ』から……」
先程までの子供のような(実際に、子供なのだが)笑顔とは打って変わって、無表情に近い表情を見せる花穂。
「ここは、お兄ちゃまの世界だから……誰も、お兄ちゃまを責めたりしない。お兄ちゃまが望めば……この世界では、なんでもできるんだよ」
「僕が……望めば……?」
鼓動が高ぶっていく。
「そうだよ……『人の温もりを知りたい』っていう願いだって……」
すべてを見透かしたような瞳。
……いや、『花穂』という『願望』を生み出したのが蛍自身であるならば、それは不思議なことではないのかもしれない。
「……僕は、人の温もりなんて、いらない」
「強がらなくてもいいよ、お兄ちゃま。花穂は、お兄ちゃまのことなら、すべて分かるんだから」
そう言って、蛍の首元に自分の両腕を回し、お互いの唇がくっつきそうなぐらいまで、蛍の顔を引き寄せる。
「や……めろ……花……穂」
今まで、まともに異性と関わったことのない蛍は、これから起こるであろうことに恐怖していた。
そして、生まれて初めて、人間のことを『怖い』とも感じていた。
その証拠に、体は震えて、まともにしゃべることも出来ず、思考さえもはっきりしていない。
「怖がらなくても大丈夫だよ。優しくしてあげるから」
それは、とても小学生ほどの少女から想像できる言葉ではない。
……もっとも、兄の『理想』である『花穂』という少女が、今の花穂そのものだったというだけなのだが。
「僕は……怖がってなんか……んん」
刹那、花穂と蛍の唇が重なった。
「……ん……んん」
お互いの舌が絡み合う、濃厚なキス。
その今まで感じたことのない未知の快感に、蛍はすっかり魅了されてしまった。

やがて、数秒の口付けの後、どちらともなく、唇を離す。
「……花……穂」
半ば放心状態で、花穂の名を口にする蛍。
その顔に、先程までの怯えきった表情は、全く見られない。
「気持ちよかったでしょ? ……それに、温かかったでしょ? お兄ちゃま?」
「……そんなこと」
否定しようとした蛍だったが、少なからず、先程のキスに『快感』と『温もり』を覚えてしまったのも事実だったため、否定することができなかった。
「……気持ちよくて、温かかった。ありがと、花穂」
「花穂は、お兄ちゃまの望むことなら、なんでもするからね」
「ありがとう。でも、僕は花穂と一緒にいられるだけで、うれしいから」
嘘偽りのない、正直な気持ち。
ひょっとしたら、この時すでに蛍にとって花穂は、ただの『他人』ではなく、『最愛の人』……だったのかもしれない。
少なくとも、お互いがお互いを支えあっているということだけは、確かだった。




僕が眠り続ける理由?

僕にも、よく分からないよ。

あえて言うなら、つまらない日常に疲れたから……かな?

それに、夢の中なら、花穂とずっと一緒にいられるから。





それからも、花穂と蛍の楽しい(花穂が、『楽しい』と感じていたかどうかは、はっきりしないが)生活は続いた。
時には一緒に笑い、時には一緒に眠り、時には何気ない雑談を交わしたりもした。
しかし、蛍が、悲しみや憎しみの感情を持つことだけは、一度もなかった。
花穂という存在が、蛍の中の負の感情すべてを、優しく包み込んでいたからだ。

蛍は幸せだった。
なぜならここには、蛍の望む物はすべてある。
なによりここには、花穂がいる。
彼のすべてを、優しく受け入れてくれる花穂が。それだけで、十分だった。

しかし、幸せな時は、何の前触れもなく、終わりを告げることになる。





ピーッという音と共に、眠り続ける蛍の横に置かれている心電図らしき物の数字が、少しずつ、0に近くなっていく。
……起こっていけない、最悪の事態。現実の蛍の体に、死が近づいていた。
あまりに長い年月の間、眠り続けていた蛍の体は、すでに限界だった。
ここまで持っただけでも、奇蹟に近かった。
おそらく、夢の中の蛍の『花穂と、ずっと一緒にいたい』という強い想いが、現実で眠り続ける蛍の死を、ぎりぎりのところで阻んでいたのだろう。

……とはいえ、どれだけ強い想いを持っていたとしても、所詮、1人の人間の想いで、自分の命を留めておくには限界がある。
現に蛍は、死の危機に立たされている。
こうしている間にも、心電図らしき物の数字は、刻一刻と0に近づいていく。
しかし、蛍のいる部屋は個室。そして、蛍の周りには誰もいない。
そのため、担当医師を含む誰一人として、その事態に気付く者はいなかった。

そして、現実の蛍の異変は、夢の世界にも、大きな影響をもたらしていた。





地響きのような騒音と共に、夢の世界が崩れ去っていく。
「お兄ちゃま……もう、お別れみたいだね」
「お別れ? どうして?」
「この世界が、消えちゃうから」
悲しそうな表情こそするものの、涙だけは、決して見せない花穂。
もっとも、花穂が泣いたことなど、今までに一度としてなかったのだが。
「消える? なんで急に……?」
「……現実のお兄ちゃまが……死んでしまおうとしているから」
花穂が、この夢の世界のことで、知らないことはない。
理由は定かではないが、なぜか花穂は、夢の世界に異常なほどに詳しい。
そのため、今、この夢の世界が崩壊している理由を、花穂だけは知っている。
「現実の僕が死ぬことと、この世界が消えることに、どういう関係があるの? どうせ、生きていても死んでいても、現実の僕が眠り続けていることには、変わりがないんじゃないの?」
先程から、質問ばかりしている蛍。
しかし、自分の生み出した世界とはいえ、この世界についてほとんど何も知らないのだから、それは無理のないことだろう。
何より、花穂への絶対的な信頼があるからこそ、こうやって質問ばかりをすることができる。
もし花穂が『赤の他人』であったならば、『質問ばかりしてしまえば、嫌われてしまう』という思いのせいで、質問することをためらってしまっただろう。
「お兄ちゃまは、人の夢が消える時って……どんな時だと思う?」
「消える? よく分からないけど、夢が消えるってことは、その夢を見ている人が目覚めるってことじゃないの?」
花穂は、黙って首を横にふる。
「それは、夢から一時的に戻っただけ。夢が消えたっていうことは……夢を見ている人が死んだってことなの」
「……さっぱり、分からないんだけど……?」
確かに、今の花穂の説明ですべてを理解しろと言われても、まず確実に無理だろう。
「人が夢を見るには、その人の脳が正常に活動していないといけないの。つまり、夢を見ている人が、その途中で死んでしまったら、夢を見続けることはできないの。死んじゃったら、脳が活動することは……出来ないから」
今、この夢の世界は崩壊している。
それはすなわち、現実の蛍が死の危機に立たされているため、脳の機能が低下しているということ。
夢と現実は全く別の世界なため、お互いの世界の様子を知ることは出来ないが、夢の世界が崩壊している今、夢を見続けていた蛍が死の危機に立たされているということは、たやすく想像することができる。
「でも、夢のお兄ちゃまがこの世界から出れば……現実のお兄ちゃまは、死なずにすむ。そうすれば、お兄ちゃまはまた、夢を見ることができる。だから、ここでお別れだよ……お兄ちゃま」
「そんなの……」
蛍が『嫌だ』と言おうとした刹那、ゴゴゴゴッという地響きのような騒音と共に、まるで、もろいガラスが次々に割れていくかのように崩壊していく夢。
どうにかしたくても、もはや、夢の中の蛍にはどうすることも出来ない。
「……もう、時間がないよ、お兄ちゃま。お願い……早く、ここから出て行って」
「嫌だよ……花穂のいない世界なんて、行きたくないよ」
蛍は、何よりも、花穂のいない世界に行かなければいけないことを恐れている。
「……僕は、花穂と一緒にいられれば、他に何もいらない」
そう言って、できるだけ優しく、花穂を抱きしめる。
「……だから、例えこの世界がなくなろうと……僕が消えてしまおうと……最後の時まで、僕は花穂と一緒にいたい」
先程と違い、何があっても離れないように、力強く、花穂を抱きしめる蛍。
「……ありがとう、お兄ちゃま」
最初は、ただの『他人』だった。
「でも」
それが、いつのまにか『仲の良い兄妹』へと変わっていった。
「それはダメだよ」
そして、蛍は花穂を、花穂は蛍を、お互いに『好き』になってしまった。
「花穂は、生なき夢の住人でしかないけど……お兄ちゃまは、生ある現実の住人なんだから」
それは、抱いてはいけない想い。
『兄妹』という以前に、それはただの夢。
どうやっても実るはずのない、虚像の恋……なのだから。
「花穂のぶんまで生き抜いて……お願い」
それは、花穂が生まれて始めて言った、最初で最後のわがままだった。
直後、蛍の体が、驚くほどのペースで消えていく。
「……分かった。きっと、花穂のぶんも……生き抜いてみせる」
そうは言っても、やはり、どこか不安を隠せずにいる蛍に、花穂が語りかける。
しかし、すでに蛍の体は、半分以上消えかかっている。
おそらくは、次の言葉が、お互いに交わす最後の言葉になるだろう。
「大丈夫。お兄ちゃまは、1人じゃない。だって、花穂はいつも……お兄ちゃまの心の中にいるんだから」
「……ありがとう、花穂。大好きだよ」
そして、蛍の体は夢の世界から完全に消え去り、夢の世界は、完全に消滅した。
蛍は、体が完全に消え去る前、確かに見た。
花穂が泣いていたのを。何があろうと、決して涙を見せなかった花穂が……泣いていたのを。
表面上は強がっていた花穂も、その場で泣き崩れたいほどに、辛かったのだろう。
……それでも、絶対に蛍の前で泣かなかったのは、彼女なりの優しさだったのだと思う。

……何にせよ、蛍の『妹』として生まれてきた少女『花穂』は……消えた。





「……ん」
とある病院の、とある病室。
長い間眠り続けていた少年が、目を覚ました。
「……ここは、病院か……?」
見覚えのない景色が目に入ってきて、いささか戸惑ってしまった蛍だったが、すぐに現状を把握する。
(夢が始まった日……僕は、ここに連れて来られたんだな)
「……花穂」
ふと、花穂の名を口にする蛍。
(キミとの約束どうり、僕は、キミのぶんも生き抜いてみせるよ)
そう思いながら、ゆっくりとベッドから降りる蛍。
しかし、地面に足をつけて立とうとしたとき、ドサッという音と共に蛍の体は、床に倒れこんでしまった。
数年という長い時間眠り続けていた蛍の体は、本人の想像以上に衰えていたのだった。
「いたた……まともに立つことすら出来やしない」
そんな自分を情けなく思いながらも、必死に自分の力で立とうとする蛍。
しかし、弱った体では、どうすることも出来ない。
(さて、どうするか。医者達に見つかる前に、ここを出て行きたいからな)
何気なく、キョロキョロと辺りを見回すと、部屋の隅のほうに、一台の車椅子を発見した。
「あれに乗って、さっさとこんな所は出よう」
幸い、蛍の部屋は1階で、車椅子に乗りながらでも、直接外に出られるようになっていた。
そうこうしている間に蛍は、必死で車椅子に乗り込み、外へと出て行った。
「……二度と、こんな所には来たくないな」
誰にともなくそう呟くと、蛍は再び、白くそびえ立つ建物とは逆方向に向かって、車椅子を動かし始めた。


その日の夜、病室に蛍の姿がなかったことで、病院中がパニックになったことは、言うまでもない。
……その後、蛍が、どこで何をして生活していたかを知る者はいない。





僕が眠る理由?

そんなの決まってる。

夢を見ていれば、いつかまた、花穂に会えるかもしれないだろう?

もちろん、以前みたいに、長い時間会っているわけにはいかないけど……。

花穂に会えるなら、例え5分だろうと10分だろうと構わない。

だって僕は、花穂のことが『好き』なんだから。


……例えそれが、絶対に叶うことのない恋なのだとしても……僕は、花穂のことを想い続ける。いつまでも、ずっと……。

終わり




もどりますか?